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Byun Yeon Ock

No Nukes! Women’s Forum 2007, Byun Yeon Ock

No Nukes! Women’s Forum 2007, Byun Yeon Ock

Former Vice President, Korean Atomic Bomb Casualty Association
No Nukes! Women’s Forum 2007


私は、広島で生まれ広島で育ち1936年生まれです。昭和11年3月に生まれて四年生の時に学校の庭で、ピカっとしたとき、うつむいたので怪我はなく、気が付いてみると世の中は変わっていました。

大人たちが私を見て、早く家に入りなさいと弟の手をひっぱって家に帰りましたが、一つ上の姉は学徒動員でどこにいたのかわかりません。5年生から学徒動員に行かされていたのです。

兄がひとりおりまして、兄は広島鉄道学校に。父は当時病気をしていたんです。母は、用事があり外に出かけて、父が外に出るともう家が半分こわれており、回りの人も集まってきて、これはなんだろうかと。原爆だとは知らなかったし、ピカ・ドンしかわからなかた。2、3日してこれが原子爆弾で、30年間は広島に草もはえない、食べてはいけない、水も飲んではいけないと言われて、本当にえらいことになったなと、子どもながらに思いました。私よりちょっと上の人が広島に勤めていたのですが、大怪我をして帰りました。でも薬がなかったんです。薬どころか何も食べなかった。11歳から2合配給してくれまして、子どもだから配給がなく、いつもご飯が半分しかなかった。父が私にご飯分けてくれて、それでもしあわせだった。隣の姉ちゃんが焼けどして胸が腫れ上がった。薬がないからひりひりして泣いていたんです。私の父がお前早くすずりを持ってこいといって、私は2日も墨をすりました。お姉さんの胸に塗りましたが2日目に亡くなりました。

その時は隣組がしっかりしていたんです。なんでも回覧板で知らせて、生き残った人は8畳間まではれる蚊やを山のなかで張って、5、6いっしょにすんで戦争がおわってもわからなくて16日までいたんです。山の上に住んでいたんですが、子どもに町の様子を見にいかせ、「戦争が終わった」と聞き、信じられなかったんです。

私は被爆で、後遺症の残るとは知らずにいましたが、秋にお父さんの所に日本に住んでいる韓国の人が遊びに来て韓国に帰ろうといったのですが、もう連絡船はなかったんです。闇船を探してお金を出して帰るようにしたんです。その年は台風がきて大変だった。ある日、寝ていたらゆすり起こされて早く船に乗らないとと走って船に。ところが私が雇った船にはすでに人がいっぱい。とにかく乗ったのですが、山口のどこかで下ろされたのです。そこで乗り換えて。私はこれから韓国に帰って韓国語も知らない、どうしようと不安でした。

闇船が昼だけで。夜はどこかに止めておいて、1週間ぶりに釜山港に付いた。韓国では食べものがいっぱいなんです。くだものもいっぱい売ってる人が並んでいて、食べものがあるんだなと思いました。私は学校に入れてもらいましたが、言葉が分からなくていじめにあいました。

日本で1年生から4年生まで通ったけど私の担任の先生が生きてらっしゃいます。84歳で。広島で電話をしました「先生お元気ですか」と「あ~来ましたか」と。「今回は寄れません」といいました。

韓国の先生は私の言葉を知らないので、毎日廊下にたたされたんですよ。何かというと、九九を韓国語で覚えなさいと。私は日本語ではいくらでもできるけど、韓国語ひとつも知らないのに毎日バちっと指されたからわたしはもうなんで韓国に帰ってきたのだろうと思いました。5年生のときは試験で名前もかけなかったんです。そうしたら「名前書いていない人が2人います」というので「私かけません」と手を挙げました。先生は「あんたがなんで100点とるんだ」といったんです。九九算もできないのになんで100点とったのかと、「私のこれです」といっても信じてくれない。クラスで私ひとり100点。それから勇気だした。家でハングル文字勉強しました。ハングル文字ってなかなかむずかしいんですよ。覚えたら使いやすい文字なんです。読み方はわかるんだけど意味が分からない。

苦労して父が韓国動乱の時に亡くなりました。韓国に帰って3日目に姉が頭が痛いと息を引き取りました。兄は韓国動乱で兵隊にひぱられました。弟と私は孤児になりました。それから私は本当に苦労をしてきました。

20歳になったとき近所の人が親がいないから早く結婚したほうがいいとすすめられて結婚しましたけど、私は原爆のことを忘れていたんです。結婚して数日したら紫の斑点が出だしたんです。何かと思っていたらどんどんひどくなってきて子ども3人できましたけど、子どもにこの病気がうつっているんじゃないかと思いました。私は被爆者ということをぜんぜん感じなくて、あちこちの病院を回りました。お医者さんがあるとき私に「おかしいね、こんな病気は見たことない」って、「自分が見たところこれは光の光線だから、あんた工場で働いたことあります」って言われて、「工場で働いたことありません」と応え、おかしいね…といったときに思いだしたんです。「私は10歳の時広島で被爆しているんですけどそれがいまも影響あるんですか」というたら、知識のあった先生で、「あれは30年も40年も前のことだよ」と。「そっちのほうの病院いって精密検査しなさい」と。韓国は医療保険なんてなかったんです。入院したら全部自分で出さなければいけないし、貧乏してたからどうしようかと泣いてばかり。

その時お医者さんが言ってくれました「あなたが僕の病院に来たけん、薬は出すけど、僕にはあなたを治療する力はありません」。それを聞いたときはどんなに悲しかったでしょう。まだ若かったんですよ。20歳のときから長袖ばかり。苦労していたそのころ、大牟田被爆者の会が、韓国にいらして私と会って女性の方だったんです。「何か悪いところはありませんか」といわれて女性だったからスカートめくってみせたんです。「私はこうなんです。だるくてしょうがないんです」というと「どんなことがあっても日本に連れていって直してあげる」と。だけど信じていいのかなと思っていたのですが、大牟田で「○○さんを治療する」実行委員会を立てて看板上げてくれたんです。三井化学という大きな炭鉱会社ですが、そこの職員がひとり100円ずつのカンパを集めて私の旅費と治療代、手帳をもらうまではとカンパしてくれたんです。それで、長崎に来るようになりました。

けれどその当時は韓国人は海外に出られなかったんです。診断書をつけてだしましたが、ビザがなかなかおりない。日本では待っているんです。電話が来てビザが下りないと話すと労働組合から衆議院の人に頼んで、その人が韓国大使館に電話して、「ここで準備しているのにどうなのか。ビザを下ろしてくれ」と。ビザが下りました。治療ビザをもってきたのが昭和52年2月12日でしたか、韓国の被爆者のなかで治療をはじめたのが私が初めてでした。治療費を持ってこないと病院に入院しておられません。長崎の病院に3か月入院し、子どもが小さいからまた帰っていったり着たりが10年つづきました。私が行けないときは、大牟田の記念病院が委員長先生が薬を出してくれたり、「この人は、長く治療しないとダメだ」と、日本から薬を送ってくれ、おかげさまで、いまが人生で一番健康なときなんです。日本政府はにくいけど、日本の民間の皆さんのおかげで、みなさまの運動のおかげで私が健康を取り戻し、みなさんとこういう場で話すことができました。本当に光栄です。来た時に考えたのは、反戦運動は被爆者なしには考えられません。もし被爆者の方がこの中にいらしたらいっしょにがんばりましょう。